よふかしの

6月のブログを書かないのか、と聞かれた。だから今これを書いてるのかと言われるとそうではなくて、寝れない日にいろんなことを考えてメモリを圧迫していくからなので、結局のところ、寝れない日に書いている。
逆に言ったらそれ以外の日は基本メモリに溜め込まないように過ごしているのだなと思う。最近なんにも覚えてられないし、覚えようとする努力すら忘れていくような有様だし。
頭に浮かぶものもあの仕事がどうこう、家の用事がどうこう、どれも解決するわけでもないのに、言葉の羅列が脳を巡って眠れない。それをゲームボーイカラーくらいの出力で記しているのが当ブログだ。毎回同じようなことを同じような解像度で述べる程度だし、ブログのアドレスに以下同文とつけたのは我ながら言い得て妙だなと思う。
たりないふたり」の影響で(やっと)CreepyNutsにふれ始めた。カッコよく外国語話すみたいに流れ去る言葉に頭がなかなかついていけなくて歌詞カードもなくて歌えない。一方で、オザケンの「泣いちゃう」は意図はわかって泣けれども、もう歌える感じじゃない。東京事変を頼りにするけれど、なんだか今度のアルバムはもはややりたいようにやり始めた彼女らについていけず、ついコナンの映画主題歌ばかり聞いてしまう。
青春とか恋愛とかを直線的に歌うんじゃなくて、でも聞きやすくて歌いやすくて掴みやすくて、でもテーマは深い曲ないのかな、という贅沢。そんなものはない。ここにいる三十代後半の中間管理職男性が持つ低い解像度に合わせた曲の、どこが面白いのだ。若くに寄るか、古きを偲ぶか、自分が寄せていかないといけないんだ。ああ、なんだか言いながらちょっと辛くなってきた。そういった自分なりの帰結として至ったのが、今のところずっと真夜中でいいのに、ではないかと思っている。

陳腐なものからの脱却を期待してピンドラ映画にクラウドファンディングしたけど、その姿が一番ファンとして陳腐なんだよなー。という自己矛盾は永遠に拭いきれないのよね。面白かった芸を安易にシリーズ化する番組に噛み付いてる場合かなあ、自分が一番足りない、とCreepyNutsも言ってるそれな。「たりないふたり冬」は壮大なラブレターでよかったよ。

この間団の人たちに久しぶりに会ったら、子どもの名前だ、生命保険だ、家賃だ、という人生の話ばかりでへそ曲げた当方三十代後半男性は、それがまさに今自分が立ち向かわなきゃいけないことであるとは理解しているものの、ギリギリまでどっちを向こうか考えようとあがいているのである。そしてあがいたことすら忘れていくのである。世迷言、夜迷言。