竜とそばかすの姫と猫と私

ついに『竜とそばかすの姫』を見たので、思ったことをまとめておく。見終わってまず、自分は作るシナリオに対して、どこまで考えて作ってるんだろう、ということに思いを馳せた。

 

以下ざっくりネタバレもあるので注意。

 

『竜そば』に限らず監督のやりたいことが主に「現実世界のマイノリティが、非日常の世界を通じて自分というものを見出し、広がった視界で誰かを助ける」ことなのかな、と思っている。

監督はこの社会の大衆をものすごく醜く描く。マイノリティの惨めさを強調して仮想現実で救われるきっかけを見出すためになのかもしれない。虐待、炎上、晒し、噂といじめ、コミュ障…現実としてそういうことはある。直視したくない汚い現実。この作品を見てて、監督はこの汚い現実を本当に嫌悪しているんだろうというのはわかった。

監督御本人のコメントでは、どちらの世界がいいということは名言しない作品だということだったが、印象としてはどちらも気持ち悪いなとしか感じられなかった。

世間に対して大きな注目を集める作品の責任、というものを、この間のコナン映画を見て考えるようになった。子ども向けの作品だからといって、その責任から逃れるわけじゃない。

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「竜そば」が醜い現実を描くのは構わない。でも、その中で何も解決されなかったことが、あまりにも無責任に感じる。幸せって?って問われた大人たちが狼狽するの、あまりにも「社会にいるダメな大人像」でしかなく、その答えって結局誰も持っていないんだよということがこの作品の言いたいことなんだな、と思えてしまった。

ご都合主義で物事を解決すること自体は構わない。虐待の現場を抑えたあと大人ではなく高校生が現地に向かうこと自体は、シナリオの都合として別に構わない。でも、主人公だから行かなきゃいけない、のではない。主人公が行く状況と必要があるから行くのだ。そして、主人公じゃなきゃ解決できないことがあるからいくのだ。でもそれがなかった。

 

で、まあここまで書いてきて自分の話にするんだけど。

TRPGで、卓のなかでしか経験できないシナリオを作っている。そんな狭い世界のなかだとしても、シナリオのなかに「いいと思うもの」を可能な限り込めたい。参加してる人にそれを感じることは求めないが、自分がやりたいものに一生懸命でありたいよなあ、と思う。そも最近そんな熱量でシナリオを作れていないので、湧き上がるなにかがほしいのだけれど。

もちろんだけど、自分が「竜そば」よりもいいお話を書けるという話ではなくて。自分だったらどうするのだろう、をいつも考えていたいという話。

 

余談だけど、キャッツのミュージカル映画、生理的に気持ち悪い部分は確かにある。でも、歌の持つパワーは映画でも伝わったし、それが物事を解決してもおかしくない世界が描かれていた。舞台見に行きたくなったし。いろんな作品にふれ、人が何をもってして評価し、それが自分とどう違うのか、言葉にしていく練習をしなきゃ、言いたいこともなくなってしまうから。