生きている自分のかたち

祖母が亡くなったので、1月初めの連休は予定をキャンセルして親の実家に行った。祖父の時はあまり行こうとしなかったのに、今回は過程を見ていたからかちゃんと見送りたかった。

祖母はとても優しい人だった。にこにことしていて、動いてないと落ち着かなくてなにか振る舞おうとしてくれる。孫だからだけでなく、たぶん誰に対してもそうなのだろう。弔問に来て泣いている人たちを見ていてそう思った。

良くしてくれた祖母と対面したら泣くのかなと思っていたけど、一度も泣かなかった。寂しいけれど、涙は出なかった。泣きそうだな、と予防線を張ってしまうのかもしれない。

自分の番が着実に近づいていることを感じたりもした。趣味のおかげか楽しくてごまかしているけれど、現実の自分の輪郭はこういうときに覿面に現れてそれが頼りないことを自覚させる。

社会とは健全に傷つけ合う関係のことだ、というツイートを見た。人は常に一人ではいられないし、何かの意見を言えば誰か傷つく人はいるのだろう。でも黙っていることはできない。

だけど「傷つける」前提でいることがどうしても受け入れられない。祖母でも誰かを傷つけたのかもしれない。それでも笑顔で居続けてくれたことを忘れないようにしたい。そういう浪漫によって自らの輪郭をぼやけさせるのだとしても。

まだしばらく生きていたいな。と思いつつ日本酒をがんがん飲んでしまった。