抽象的な決意の話

今度新作が来るということで、たりないふたり(ご存知かと思うけれども、山ちゃんと若林のコンビ)の特番を見ようとなってHuluで見ていた。その前の武道館ライブも履修したので、面倒くさがりな自分にしちゃかなり気に入っているなと思う。
特番は漫才を作るとかいうテイストだったけど、始終二人がお互いについて話し合ってるだけだった。でもそれが面白かった。
もともと飲み会に行きたくない、世間とか社会とかに溶け込めない感情をネタにしてきた「たりないふたり」だったのに、山ちゃんが人に対して屈折した気持ちを抱えたままなのに対して、若林がかなり世間にこなれてしまった。きらわれても白黒はっきりつけるほうがいい、その覚悟ができてきた、と言っていて、山ちゃんへかなり言葉を選んで伝えていたのが印象的だった。
個人的には二人共成功しているように思うけれども、目線を意識し続ける山ちゃんと、目線を受け入れて切り分けていく若林が、人生と社会という大きな潮の流れの中での立ち位置が異なって見えた。対等だけども、若林が俯瞰的に山ちゃんを見つめて、それをひっくるめて笑いに落とし込もうとする力。

世論とか世相とか集まってできたなにかに縛られるのではなくて、その中の一人ひとりが変わり、結果とし社会が緩やかに変わっていく、ような一個人でありたい、と思う。別に社会を変えたいとかそういう大仰なことをするのではなく、ひとりひとりが俯瞰的に捉えることを進めることで社会が変わっていくこと。オザケンの『意思は言葉を変え、言葉は都市を変えていく』ってまあそういうことなのかなあ、と今日「流動体について」を聞いてたらそんなことを思った。
いま曲がりなりにも中間管理職になってしまったし、たいへんだけどわりかし楽しんでいる。昔から比べたら考えられないほど仕事をしている。そうじゃない自分もいたよね、という蜃気楼のこともよく思い出してそっちに行きたいんじゃないの?と想像するけど、自分が生きやすいようにしか生きられないよ、と振り払う。どこかで運命の線路を乗り換えたんだから。

ベルセルクの作者さんが亡くなったこと、とても残念だった。熱心な読者ではないけれど、楽しみにしていた続きが一生読めないのだと思うと、それだけで辛いものがある。人ひとりが亡くなることはどれだけちっぽけでも大きな感情の流れを突き動かしうる力があり、そして本当はその力は、亡くなるから発揮される力ではないはずなんじゃないだろうか。どうしても感情が爆発するエネルギーに頼りがちだけれど、人間関係や倫理に板挟みにされて身動き取れなくなる前にもっと生きやすくしなやかに、それが社会を変えられると信じていく。

仕事で失敗して凹んでいたけれど、上を向いて歩くこと。